雑記帳

私が思ったこと、誰かが思うかもしれないこと

井の中のジュブナイルたち

 エリちゃんが帰ってきた。
 冬が近づくにつれて色を失っていくこの町に、外の空気を身に纏って帰ってきたエリちゃんは、まるで紺色の体操服の群れの中で浮く学年違いの赤いジャージのようだった。
 急に肌寒くなったせいで私は風邪をひき、三日間学校を休んだ。仕事の合間にポカリとりんごをもって様子を見に来たお母さんが、ついでのようにエリちゃんがなんたら、と言っているような気がしたが、その呟きは熱にうなされていた私に届くことなく、夢と現実の間に落っこちていった。そして寝込んで三日目の夜、ようやくベッドから這い出られるようになった私は、三年ぶりに隣の家のエリちゃんの部屋に電気がついているのを見て仰天することになる。

  久しぶりに登校した日、一時間目の数学は自習になった。あと二週間もすれば定期テストなのに、私たちのクラスは他より少しだけ遅れていてまだ関数の章に入っていない。このままテスト範囲狭くなればいいのにね、だとか、俺は確率と体積だけやるわ、だとか、教室の至る所から声が聞こえる。たった三日休んだだけなのに随分と体力が落ちたようで、楽しそうなおしゃべりに混ざる元気はない私はひとまず教科書を読むことにしたが、休んでいた時の分が全く分からずすぐに飽きてしまった。病み上がりのぼんやりする頭で教室見回すと、窓際の前から2番目、佐竹君の席が空いているのに気が付いた。私と同じように風邪をひいたのかと思ったけれど、無人の席には持ち主不在の荷物だけがぽつんとある。どうやら学校には来ているらしい。
「ねえ、佐竹君は?」
前の席で社会の資料集を眺めていた京子に聞くと、彼女はいい暇つぶし相手を見つけたとばかりに体をぐるりとこちらに回した。
「そっか、由美は休んでたから知らないのか」
 テニス部らしく日焼けした、そばかすの浮かぶ頬がくい、と持ち上がる。
「昨日万引きがバレたんだよ。それで自習になってんの。佐竹は生活指導室だよ」
「万引き。何を盗ったんだろ」
「さあ。マンガかゲームじゃない?それかもっとしょうもないもの、文房具とか」
 京子が挙げたものはどれもいまひとつピンとこなかった。あまり話したことはないが、佐竹君がそんなものを欲しがるだろうか。
「まあ、万引きって欲しいものを盗るわけじゃないし」
 あのドキドキと達成感が癖になるんだよねえ。そう言って京子は自慢げにくるりくるりとシャーペンを回す。ぼんやりする頭でなんとなく、ゴキブリとかネズミを捕ってきたおじいちゃんちの猫を思い出した。

 その日はとにかく長い一日だった。校庭に寝ころびストレッチを始めたサッカー部を横目に、学校ってこんなに長かったっけ、と首をひねる。グラウンドの脇を通り、テニスコートで部活の友達とおしゃべりをしている京子に手を振り、今日までは休むことにしたバレー部の仲間に会わないように体育館の横を足早に通り過ぎる。そしてようやく家に辿り着くと、隣の家の前で金髪の女の人がタバコを吸っていた。金髪というよりも、つやのない髪はどちらかというと黄土色で、色白な顔の中で真っ赤な唇だけが異様に目立っていた。
女の人の、虹彩が強調された青色の目が私を見る。
「おかえり」
 声だけは昔と同じで、それがとても不自然だったけれど、エリちゃんはタバコを足で踏んで消し、溝に落とした。
 三年で髪も、唇も、目の色も変わってしまったエリちゃんと会話をするには、私は変わらなさ過ぎていた。
カラコンって、青いのつけたらぜんぶ青くみえるようになるの?」
「なんないよ。何も変わんない」
「ふうん」
 そういってしばらくエリちゃんの青い目を見つめたあと、私は塾があるから、またね、とそそくさとその場を立ち去った。自分の部屋に帰ると、情けなくて、そのままベッドに倒れて眠った。本当に、長くて、サイテーな一日だ。

   夜中、女の人が言い争う声で目が覚めた。若い方は陶器が割れたのかと思うくらい鋭い声をしているのに比べて、もう一人の声は割れた花瓶の水を吸った絨毯のように重く、踏めば水が染み出てきそうだ。若い声が陶器の破片を突き付けたところで、夜は静けさを取り戻した。
   コツコツ、と窓が叩かれる音でまた目が覚める。窓の向こうのエリちゃんの目は黒く、唇は白っぽかった。色の無い唇は、湖に行こう、と動いた。

 桟橋に結んであるロープをほどくと手に緑の苔がついた。それをスウェットの裾で払い、足で柱をけって漕ぎ出す。耳鳴りがするくらい静かだった水面に、ギッ、ギッというオールの軋みと、時折ガコンと舳先が船べりにあたる音が響く。
 エリちゃんは前を向いて、水が割れていくのを黙って見ていた。道徳の時間とか、誰かが悪いことをした時の集会の空気とも違う、緊張感のない静けさを人と分け合うのは久しぶりだった。
「都会を好きになるって、自殺するようなもんなんだって」
ボートをこぐのに夢中だった私は、あやうくエリちゃんのそのつぶやきを掬い損ねそうになった。
「誰のだったかな、こないだ友達に借りた本にあったんだ。都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ、って」
「じゃあ、田舎を好きになったらいいの?」
「田舎を好きになると、殺されるよ」
「誰に?」
「知らない」
ガコッ、とオールが船べりにあたり、足の裏を小突くような振動を感じた。エリちゃんはもう何も話したくないようだった。
 ボートを止める。オールが滑らないようにしっかり輪にはめ込み、板の上に座る。雨に濡れたわけでもないのにじんわりと湿っていて、冷たくて、お尻の下に手をねじ込んだ。
 エリちゃんは相変わらず前を向いている。後ろから見るエリちゃんは、すっかり大人の女の人だった。
「ゆみはさ、高校行くんだっけ。どこ?」
「第一」
「すごいじゃん、いけるよ」
ゆみなら。また黙ってしまうかと思ったけれど、エリちゃんは続けた。
「高校出た後はどうするの。ここ、でていくの」
「決めてないかな」
「出ていきたいって思う?」
「…わかんない」
 息と一緒にそっか、と吐き出すと、今度こそエリちゃんは私に興味を失ったようだった。
 湖面を揺らした風はボートを揺らし、エリちゃんと私の髪を揺らす。月のない夜だったので、エリちゃんの黄土色の髪は私と同じ夜の色に染め上げられていた。それからしばらく、静かな背中を見つめていたが、特に何を話すでもなく私たちは湖を一周し、帰路についた。
 別れ際、エリちゃんはふとスマホのカバーを外し、一枚のカードを取り出した。
「これあげる」
 なんでもないように私に差し出したそれは、とっくの昔に失効したエリちゃんの学生証だった。印刷の消えかかった高校生のエリちゃんの髪は黒く、艶やかだ。受け取ると、エリちゃんはじゃ、またね、と言って家に入り、次の日都会に帰っていった。

   エリちゃんが都会に帰っていった次の日、学校に行くと窓際の前から2番目の席に佐竹君が帰ってきていた。高校生みたいにYシャツの中に赤いTシャツを着て、ワックスで頭を跳ねさせている佐竹君はあんまり反省していなさそうだった。
 都会を好きなるって、自殺するようなもの。それは誰かの遺言のように思えた。エリちゃんの心に引っかかったように、それは授業中も、テスト中も、私の頭の片隅にちらつくことになる。

 テスト明けの日曜、私は隣町の大型書店にいた。目当ての本は立ち読みできないように包装されていたので、痛い出費だがレジに並ぶ。レジには長い列ができていて、とても時間がかかりそうだった。ふと私の前に並ぶ、つんつんした頭に見覚えがあることに気づく。
 佐竹君、と呼びかけると、驚いたようにつんつん頭が振り返る。手にはギターの教則本を持っていた。待っている間、テストの出来や、近づく体育祭がめんどくさいこととか、どうでもいいことを話しているとやがて順番が回ってきた。
 店を出て、そのまま私たちの町へ帰るバスに乗り込む。一番後ろに揃って座ると、そういえば、と思い出した。
「佐竹君は何を盗ったの?」
 佐竹君は心外だとでも言うように肩をすくめる。
「盗ったんじゃない、借りたんだよ、音楽室のギター。誰も使ってないし持って帰ってもいいかと思って。」
 昔の泥棒のような唐草模様のほっかむりをして、ギターをかついで逃げる佐竹君の姿を想像してしまった。佐竹君とギター。文房具やマンガなんかより、よっぽどしっくりくる組み合わせなのではないだろうか。
「隣のクラスにダブって1つ上から来た吉田っているだろ?一人だけ体操服とか赤い。あいつ、音楽詳しくてさ。バンド組みたいから、音楽室のギター借りて家で練習しようと思ったんだよ。いつかメンバー増やして大きい街に行くんだ」
 それは社会科準備室で見た世界地図みたいに大胆で大雑把な計画だった。きっとこういうのを大風呂敷を広げる、っていうんだ。
 教本を眺め始めた佐竹君を見て、私も緑のビニール袋の存在を思い出し、開封する。あの一節は『青色の詩』という詩の最初の一文だった。

   次のバス停に着く前に、私は詩を読み終えた。その詩は私の中に何も残さなかった。それどころか、なにか重大な意味があるような気がしていた最初の一文さえ、読み終わる頃にはその魅力を失ってしまっていた。
 隣を見ると、佐竹君が手元をのぞき込んでいた。
「この詩、どういう意味だと思う?」
 佐竹くんは少し考えていたが、
「さあ。特に意味はないかも」
 と投げやりに返した。
「そんなことある?」
「あるに決まってる。それっぽい言葉を並べてるだけなんてよくあることだろ?俺はそんなペラい文章嫌いだね」
 愛だとか世界だとかサブイボもんだよ、というなんとも佐竹君らしい意見をもらった。
「でも、都会にいる、サイテーで最悪な生活してる人とかはこういうの好きかも。あいつら、毎日満員電車とかいうやつに乗ってるくせに、ここにいるのは自分一人だけだと本気で思ってんだぜ」
 だから孤独とか歌うとウケるんだ。そう言うと、今度は教則本を閉じて眠り始めた。
 佐竹君の言う通りなら、エリちゃんのあの青い目には、すべてがこの詩のように見えていたのだろうか。私や佐竹君にも、いつの日か、こういう詩や歌を聞いて寂しい、寂しいと泣く日が来るのかもしれないと思ったけれど、それは高校の制服を着た私たちを想像するよりも難しい。
 夕日が眩しいのだろう、目を閉じたまま身じろぎする佐竹君を残して、私は最寄りのバス停で降りた。

   自分の部屋に帰ると、机の上にエリちゃんの学生証があった。写真の、ちょうどエリちゃんのつむじの上あたりから2本、カーブした線を黒のマジックペンで書き加える。即席の遺影だが、とても死んでいるようには見えない。