雑記帳

私が思ったこと、誰かが思うかもしれないこと

15時17分、パリ行き

 サクラメント。その響きが頭の隅に引っかかった。物事を混同して何かのはずみに思い出してしまうのは私にとってよくあることなので、サクラメントもそのたぐいではないか、粗方さくらと何かを勝手に頭の中で混ぜてしまったのではないかと思いもしたが、ひねり出すように記憶を絞っていくと、確かに私はサクラメント、それもゴールドラッシュに沸く合衆国黎明期、荒涼とした土地に灯る寄る辺の無いあかりでしかなかった誕生して間もないサクラメントをつい最近他の作品で目にしていた。再びスクリーンに意識を戻すと、そこには既に労働者と鉱山経営者のいさかいなどは存在しない、現代のサクラメントが映し出されている。


 『15時17分、パリ行き』

 

 この作品の下地になっているのは2015年に起こった『タリス銃乱射事件』。その年を私にあてはめると高校を卒業し、そして大学に入学した年だ。余命僅かとなった女子高生としての命を受験に追われるまますり減らし、またはこれまで通り有意義に浪費して過ごした。友達がしていたのを真似するままTwitterのアプリを消していたが、頻繁にプラウザからわざわざ見ていたのでそこまで効果のない制約だったといえる。もちろん友達も同様だった。

 受験とその先に見える卒業がより現実味を持って迫ってきた寒い季節、ソックスとスカートの合間から除く肌が誰も彼も粟立っていた初春。あの頃のことを思い出そうとすると、時事問題対策で頭に叩き込むまでもなく強烈なインパクトをもって記憶に刻まれた一連の報道が懐かしい空気と共に引きずり出されることがある。オレンジ色の服を着て並び土の上に跪いてこちらを見つめる2人の日本人と、その間に立つ全身を黒い布で覆いナイフを高く掲げる人物の画像。プラウザから見ていた操作しにくいTwitterには競うようにあらゆる手段でその画像を奇抜で低俗で侮辱的に加工したものがアップロードされ続け、やがて囚われた日本人の母なる人物がなんとも要領のつかめない会見を開き、それがまた話題にもなった。2015年とはそんな年で、この物語はイスラーム過激派が苛烈な活動を繰り返していた年に起きた『タリス銃乱射事件』を目指し走り出す。


 作品の主要人物、スペンサー・ストーン、アンソニー・サドラー、アレック・スカラトス。この3人に役名と本名の区別はない。なぜなら実際に事件の場に居合わせた3人が自分の役を演じているからだ。サクラメントで過ごした彼らの幼少期の回想を始発とし、合間に2015年の事件の断片を挟みつつ物語は進行する。幼少期の3人は平たく言えばはみ出し者の問題児で学校に馴染めずにいる。スペンサーとアレックには集中力の欠如がみられるが戦争、軍隊といった話題には敏感に反応し、それが将来軍人を志す礎になる。そして3人は成長し、ヨーロッパ旅行の計画を立てた。

 ドイツを訪れたスペンサーとアンソニーは現地集合のアレックと合流する前に自転車で観光する。アドルフ・ヒトラーが自決を遂げた場所として総統地下壕を紹介するガイドに2人は間違いを指摘するが、ガイドはこう返す。「アメリカの歴史が全てというわけではない」。全編の中でも何気ないシーンと台詞かもしれないが、それでもこの一言にこの作品が持つ一面を見た気がした。


 「歴史はいつでも敗者に背を向けて、勝者を正しいとするものだということを忘れてはならない」


 戦争があれば勝者がイニシアチブを取り歴史を進め、敗者は辛酸を舐め従う。積み重なるのは勝利と成功で、敗北と失敗の堆積は滅亡を招く。歴史を1つの物語にまとめ上げるにあたり、その編集の邪魔とされ切り捨てられるのは圧倒的に敗者の歴史ではないだろうか。

 この作品だって『タリス銃乱射事件』をその場に居合わせ、乗客の命を救った3人の青年の目線から切り取ったものに過ぎない。3人に過去から脈々と続く物語があったように、犯人にも、列車内で撃たれた男、そしてその妻にも、人の数だけ物語は存在するが、それに踏み込むことはせず、かろうじてそれらを匂わせるのみにとどまる。この作品は他の物語を可能な限り排除し、事件を単一の視点から切り取ることに徹底しているが、それが終盤にかけて高みへと押し上げられていく3人と、その場にとどまり続ける観客の間に小さな亀裂を生み出す。

 物語が終わりに近づくにつれて、3人と3人を撮影するカメラ、そしてカメラを通して3人を見ていた観客との間の距離が広がっていく。序盤から観客はカメラを通して、自分をあたかも存在しない4人目の幼馴染だと錯覚してしまうほどに近い場所から彼らの成長を見つめるが、怒涛のテロシーンが終了するにつれてカメラは少しずつ3人から離れ始める。勲章授与の場面になるとそれが顕著になり、壇上に上がり勲章を拝する3人と観客の間にはまるでテレビ越しに彼らを見ているような距離がある。これは実際のニュース映像を使用しているのだろうか。距離は縮まらず、エンドロール、そしてその途中に挟まれた地元での凱旋パレードのシーンに移る。3人が乗るフロートに書かれた「サクラメントの英雄」という文字を見て、どこか同情してしまう。というのも、それは彼らが望んで手に入れたもののように思えず、民衆が求める英雄像を押し付けられているように見えてしまったからだ。

 観客と彼らの間に生まれた距離、自分と3人の乖離はそのまま事件前と事件後で分断された彼らではないか。これまで平凡で、善良で、どちらかというと蔑まれる側であった3人が人の願望や欲望、歴史に飲み込まれる瞬間を観客である私たちは元々彼らがいた場所から眺めるのかもしれない。