雑記帳

私が思ったこと、誰かが思うかもしれないこと

亀裂

 体育館の後方に設けられたオケブースから卒業していく先輩たちの背中を見送った後、帰宅した私はこたつにもぐって紅白まんじゅうを食べながらミヤネ屋を見ていた。
 たぶん芸能人のゴシップか政治家の不祥事だったとおもう。突然上にテロップが出て、いつも騒がしい画面の中の宮根誠司は大阪が揺れています、といつになく声を荒げたが、中継が繋がった東京のスタジオも揺れていた。
 こたつに寝ている私は揺れを感じるどころか地響きの一つ聞き取ることができなかった。
 大阪が揺れて東京も揺れてるんだから震源は静岡とかそこらへんかな、社会の先生もいつか静岡に大きい地震が来るっていってたし。そう思いながら様子を見ていると、震度ごとに赤く染められた日本の東半分が画面に映り、その赤くなった部分に今度は津波が来るらしいということが分かった。
 そして大阪のテレビスタジオも東京のテレビスタジオも飛び越え、もっと日本の右上のほう、行ったこともない地方の港がテレビに映った。
 その時勝手口からばあばが入ってきたので、私が「ばあば、津波てたい」と言うと、ばあばは地震があったことすら知らず、風呂の水があふれるように海水が港を満たしていく様子を、積まれたコンテナが浮遊しはじめるところを見て、ばーっと嘆息の声を上げた。
 ばーっ。その一言に尽きる。むしろそれ以外に何を言うべきだったのか。ばあばはいつもよりテレビを気にしていたが、いつも通り夕飯を作り、弟が帰ってきて、ママが帰ってきて、パパが帰ってきた。3月11日。これが私が最も鮮明に覚えているその日の記憶。


 日本が地震津波で原子炉で放射能なのだとしたら、私が生きているここは日本じゃないのかな、日本だとおもってたんだけど。
 日本の左はしに住んでる私は部活に行って、練習して、帰ってきて、塾の春期講習に行って、晩御飯を食べる。
 でもテレビをつけるとそこに映る日本はいつでもタイヘンなことになっていた。
 揺れて、崩れて、燃えて、流されて。これが日本ですって、じゃあ私が暮らしているのはなんていう国なんだろう。
 

 

 

 

 

 サークルが終わった後、仲間とたむろしているとメールが届いた。災害情報メールだった。地元で震度7地震があったらしい。誤報かな、と思った。
 Twitterを開いて、地元の友達が慌てているのを見てはじめて、ああ、本当なんだ、と思った。
 気が付くと一人暮らししているマンションに帰ってきていた。テレビをつける。揺れて、崩れて、燃えて、落ちて。18年間暮らしてた場所なのにテレビを通した瞬間こんなにもよそごとに見えるのか。このどこかにうちの家族もいるんだよな、たぶん映らないけど。映ら、ないかなあ。
 Twitterを見る。地元の友達が災害情報や道路情報をリツイートしている中に、眠いだとか、新歓楽しいだとか、東京の友達の何気ない日常が混ざろうとしては、違うだろ、いつも通りじゃないだろ、と私の目にはじかれる。

 でもきっとあの時もこういうことだったんだろう。
 大学生の私が自分の非日常に日常が混ざるのを拒んでいるように、中学生の私も自分のいつもどおりにタイヘンな日本を混ぜようとはしなかった。
 地震で地面が真ッ二つに割れるみたいに。山間に架かった橋が両岸ごとなだれ落ちるみたいに。
 日常と世間の非日常を結ぶ線を切り落としたのは自分自身だったと、関係者でも部外者でもない、線の上に立って初めて気がつくこともあるだろう。
 
 関係ないとか、興味ないとか言われて傷つくけれど
 全然思ってないのに大変だねって、お気の毒にっていわれて、一ミリも辛さわかってないくせによくいうよって腹がたつけれど

 関係なくないし、興味ないじゃ済ませられないような、実際に自分がそうなるまで本当の意味で理解なんてなんてできっこないじゃないか。

 自粛とかいってすぐ黙るけど
 黙っていられるから自分は関係ないって、心のどこかで安心してないか
  
 自分のことを大袈裟だって笑った何も知らない人が同じ目にあった時、ザマアミロって思うのも仕方ないかもしれないけれど、そこで終わる人にはなりたくないとは思う。
 関係ないふりをしたことを思い出して、後悔して、生意気な昔の自分の何もわかっちゃいなそうな横面を殴りたいと、恥ずかしくなれる人でありたいとは思う。

井の中のジュブナイルたち

 エリちゃんが帰ってきた。
 冬が近づくにつれて色を失っていくこの町に、外の空気を身に纏って帰ってきたエリちゃんは、まるで紺色の体操服の群れの中で浮く学年違いの赤いジャージのようだった。
 急に肌寒くなったせいで私は風邪をひき、三日間学校を休んだ。仕事の合間にポカリとりんごをもって様子を見に来たお母さんが、ついでのようにエリちゃんがなんたら、と言っているような気がしたが、その呟きは熱にうなされていた私に届くことなく、夢と現実の間に落っこちていった。そして寝込んで三日目の夜、ようやくベッドから這い出られるようになった私は、三年ぶりに隣の家のエリちゃんの部屋に電気がついているのを見て仰天することになる。

  久しぶりに登校した日、一時間目の数学は自習になった。あと二週間もすれば定期テストなのに、私たちのクラスは他より少しだけ遅れていてまだ関数の章に入っていない。このままテスト範囲狭くなればいいのにね、だとか、俺は確率と体積だけやるわ、だとか、教室の至る所から声が聞こえる。たった三日休んだだけなのに随分と体力が落ちたようで、楽しそうなおしゃべりに混ざる元気はない私はひとまず教科書を読むことにしたが、休んでいた時の分が全く分からずすぐに飽きてしまった。病み上がりのぼんやりする頭で教室見回すと、窓際の前から2番目、佐竹君の席が空いているのに気が付いた。私と同じように風邪をひいたのかと思ったけれど、無人の席には持ち主不在の荷物だけがぽつんとある。どうやら学校には来ているらしい。
「ねえ、佐竹君は?」
前の席で社会の資料集を眺めていた京子に聞くと、彼女はいい暇つぶし相手を見つけたとばかりに体をぐるりとこちらに回した。
「そっか、由美は休んでたから知らないのか」
 テニス部らしく日焼けした、そばかすの浮かぶ頬がくい、と持ち上がる。
「昨日万引きがバレたんだよ。それで自習になってんの。佐竹は生活指導室だよ」
「万引き。何を盗ったんだろ」
「さあ。マンガかゲームじゃない?それかもっとしょうもないもの、文房具とか」
 京子が挙げたものはどれもいまひとつピンとこなかった。あまり話したことはないが、佐竹君がそんなものを欲しがるだろうか。
「まあ、万引きって欲しいものを盗るわけじゃないし」
 あのドキドキと達成感が癖になるんだよねえ。そう言って京子は自慢げにくるりくるりとシャーペンを回す。ぼんやりする頭でなんとなく、ゴキブリとかネズミを捕ってきたおじいちゃんちの猫を思い出した。

 その日はとにかく長い一日だった。校庭に寝ころびストレッチを始めたサッカー部を横目に、学校ってこんなに長かったっけ、と首をひねる。グラウンドの脇を通り、テニスコートで部活の友達とおしゃべりをしている京子に手を振り、今日までは休むことにしたバレー部の仲間に会わないように体育館の横を足早に通り過ぎる。そしてようやく家に辿り着くと、隣の家の前で金髪の女の人がタバコを吸っていた。金髪というよりも、つやのない髪はどちらかというと黄土色で、色白な顔の中で真っ赤な唇だけが異様に目立っていた。
女の人の、虹彩が強調された青色の目が私を見る。
「おかえり」
 声だけは昔と同じで、それがとても不自然だったけれど、エリちゃんはタバコを足で踏んで消し、溝に落とした。
 三年で髪も、唇も、目の色も変わってしまったエリちゃんと会話をするには、私は変わらなさ過ぎていた。
カラコンって、青いのつけたらぜんぶ青くみえるようになるの?」
「なんないよ。何も変わんない」
「ふうん」
 そういってしばらくエリちゃんの青い目を見つめたあと、私は塾があるから、またね、とそそくさとその場を立ち去った。自分の部屋に帰ると、情けなくて、そのままベッドに倒れて眠った。本当に、長くて、サイテーな一日だ。

   夜中、女の人が言い争う声で目が覚めた。若い方は陶器が割れたのかと思うくらい鋭い声をしているのに比べて、もう一人の声は割れた花瓶の水を吸った絨毯のように重く、踏めば水が染み出てきそうだ。若い声が陶器の破片を突き付けたところで、夜は静けさを取り戻した。
   コツコツ、と窓が叩かれる音でまた目が覚める。窓の向こうのエリちゃんの目は黒く、唇は白っぽかった。色の無い唇は、湖に行こう、と動いた。

 桟橋に結んであるロープをほどくと手に緑の苔がついた。それをスウェットの裾で払い、足で柱をけって漕ぎ出す。耳鳴りがするくらい静かだった水面に、ギッ、ギッというオールの軋みと、時折ガコンと舳先が船べりにあたる音が響く。
 エリちゃんは前を向いて、水が割れていくのを黙って見ていた。道徳の時間とか、誰かが悪いことをした時の集会の空気とも違う、緊張感のない静けさを人と分け合うのは久しぶりだった。
「都会を好きになるって、自殺するようなもんなんだって」
ボートをこぐのに夢中だった私は、あやうくエリちゃんのそのつぶやきを掬い損ねそうになった。
「誰のだったかな、こないだ友達に借りた本にあったんだ。都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ、って」
「じゃあ、田舎を好きになったらいいの?」
「田舎を好きになると、殺されるよ」
「誰に?」
「知らない」
ガコッ、とオールが船べりにあたり、足の裏を小突くような振動を感じた。エリちゃんはもう何も話したくないようだった。
 ボートを止める。オールが滑らないようにしっかり輪にはめ込み、板の上に座る。雨に濡れたわけでもないのにじんわりと湿っていて、冷たくて、お尻の下に手をねじ込んだ。
 エリちゃんは相変わらず前を向いている。後ろから見るエリちゃんは、すっかり大人の女の人だった。
「ゆみはさ、高校行くんだっけ。どこ?」
「第一」
「すごいじゃん、いけるよ」
ゆみなら。また黙ってしまうかと思ったけれど、エリちゃんは続けた。
「高校出た後はどうするの。ここ、でていくの」
「決めてないかな」
「出ていきたいって思う?」
「…わかんない」
 息と一緒にそっか、と吐き出すと、今度こそエリちゃんは私に興味を失ったようだった。
 湖面を揺らした風はボートを揺らし、エリちゃんと私の髪を揺らす。月のない夜だったので、エリちゃんの黄土色の髪は私と同じ夜の色に染め上げられていた。それからしばらく、静かな背中を見つめていたが、特に何を話すでもなく私たちは湖を一周し、帰路についた。
 別れ際、エリちゃんはふとスマホのカバーを外し、一枚のカードを取り出した。
「これあげる」
 なんでもないように私に差し出したそれは、とっくの昔に失効したエリちゃんの学生証だった。印刷の消えかかった高校生のエリちゃんの髪は黒く、艶やかだ。受け取ると、エリちゃんはじゃ、またね、と言って家に入り、次の日都会に帰っていった。

   エリちゃんが都会に帰っていった次の日、学校に行くと窓際の前から2番目の席に佐竹君が帰ってきていた。高校生みたいにYシャツの中に赤いTシャツを着て、ワックスで頭を跳ねさせている佐竹君はあんまり反省していなさそうだった。
 都会を好きなるって、自殺するようなもの。それは誰かの遺言のように思えた。エリちゃんの心に引っかかったように、それは授業中も、テスト中も、私の頭の片隅にちらつくことになる。

 テスト明けの日曜、私は隣町の大型書店にいた。目当ての本は立ち読みできないように包装されていたので、痛い出費だがレジに並ぶ。レジには長い列ができていて、とても時間がかかりそうだった。ふと私の前に並ぶ、つんつんした頭に見覚えがあることに気づく。
 佐竹君、と呼びかけると、驚いたようにつんつん頭が振り返る。手にはギターの教則本を持っていた。待っている間、テストの出来や、近づく体育祭がめんどくさいこととか、どうでもいいことを話しているとやがて順番が回ってきた。
 店を出て、そのまま私たちの町へ帰るバスに乗り込む。一番後ろに揃って座ると、そういえば、と思い出した。
「佐竹君は何を盗ったの?」
 佐竹君は心外だとでも言うように肩をすくめる。
「盗ったんじゃない、借りたんだよ、音楽室のギター。誰も使ってないし持って帰ってもいいかと思って。」
 昔の泥棒のような唐草模様のほっかむりをして、ギターをかついで逃げる佐竹君の姿を想像してしまった。佐竹君とギター。文房具やマンガなんかより、よっぽどしっくりくる組み合わせなのではないだろうか。
「隣のクラスにダブって1つ上から来た吉田っているだろ?一人だけ体操服とか赤い。あいつ、音楽詳しくてさ。バンド組みたいから、音楽室のギター借りて家で練習しようと思ったんだよ。いつかメンバー増やして大きい街に行くんだ」
 それは社会科準備室で見た世界地図みたいに大胆で大雑把な計画だった。きっとこういうのを大風呂敷を広げる、っていうんだ。
 教本を眺め始めた佐竹君を見て、私も緑のビニール袋の存在を思い出し、開封する。あの一節は『青色の詩』という詩の最初の一文だった。

   次のバス停に着く前に、私は詩を読み終えた。その詩は私の中に何も残さなかった。それどころか、なにか重大な意味があるような気がしていた最初の一文さえ、読み終わる頃にはその魅力を失ってしまっていた。
 隣を見ると、佐竹君が手元をのぞき込んでいた。
「この詩、どういう意味だと思う?」
 佐竹くんは少し考えていたが、
「さあ。特に意味はないかも」
 と投げやりに返した。
「そんなことある?」
「あるに決まってる。それっぽい言葉を並べてるだけなんてよくあることだろ?俺はそんなペラい文章嫌いだね」
 愛だとか世界だとかサブイボもんだよ、というなんとも佐竹君らしい意見をもらった。
「でも、都会にいる、サイテーで最悪な生活してる人とかはこういうの好きかも。あいつら、毎日満員電車とかいうやつに乗ってるくせに、ここにいるのは自分一人だけだと本気で思ってんだぜ」
 だから孤独とか歌うとウケるんだ。そう言うと、今度は教則本を閉じて眠り始めた。
 佐竹君の言う通りなら、エリちゃんのあの青い目には、すべてがこの詩のように見えていたのだろうか。私や佐竹君にも、いつの日か、こういう詩や歌を聞いて寂しい、寂しいと泣く日が来るのかもしれないと思ったけれど、それは高校の制服を着た私たちを想像するよりも難しい。
 夕日が眩しいのだろう、目を閉じたまま身じろぎする佐竹君を残して、私は最寄りのバス停で降りた。

   自分の部屋に帰ると、机の上にエリちゃんの学生証があった。写真の、ちょうどエリちゃんのつむじの上あたりから2本、カーブした線を黒のマジックペンで書き加える。即席の遺影だが、とても死んでいるようには見えない。

15時17分、パリ行き

 サクラメント。その響きが頭の隅に引っかかった。物事を混同して何かのはずみに思い出してしまうのは私にとってよくあることなので、サクラメントもそのたぐいではないか、粗方さくらと何かを勝手に頭の中で混ぜてしまったのではないかと思いもしたが、ひねり出すように記憶を絞っていくと、確かに私はサクラメント、それもゴールドラッシュに沸く合衆国黎明期、荒涼とした土地に灯る寄る辺の無いあかりでしかなかった誕生して間もないサクラメントをつい最近他の作品で目にしていた。再びスクリーンに意識を戻すと、そこには既に労働者と鉱山経営者のいさかいなどは存在しない、現代のサクラメントが映し出されている。


 『15時17分、パリ行き』

 

 この作品の下地になっているのは2015年に起こった『タリス銃乱射事件』。その年を私にあてはめると高校を卒業し、そして大学に入学した年だ。余命僅かとなった女子高生としての命を受験に追われるまますり減らし、またはこれまで通り有意義に浪費して過ごした。友達がしていたのを真似するままTwitterのアプリを消していたが、頻繁にプラウザからわざわざ見ていたのでそこまで効果のない制約だったといえる。もちろん友達も同様だった。

 受験とその先に見える卒業がより現実味を持って迫ってきた寒い季節、ソックスとスカートの合間から除く肌が誰も彼も粟立っていた初春。あの頃のことを思い出そうとすると、時事問題対策で頭に叩き込むまでもなく強烈なインパクトをもって記憶に刻まれた一連の報道が懐かしい空気と共に引きずり出されることがある。オレンジ色の服を着て並び土の上に跪いてこちらを見つめる2人の日本人と、その間に立つ全身を黒い布で覆いナイフを高く掲げる人物の画像。プラウザから見ていた操作しにくいTwitterには競うようにあらゆる手段でその画像を奇抜で低俗で侮辱的に加工したものがアップロードされ続け、やがて囚われた日本人の母なる人物がなんとも要領のつかめない会見を開き、それがまた話題にもなった。2015年とはそんな年で、この物語はイスラーム過激派が苛烈な活動を繰り返していた年に起きた『タリス銃乱射事件』を目指し走り出す。


 作品の主要人物、スペンサー・ストーン、アンソニー・サドラー、アレック・スカラトス。この3人に役名と本名の区別はない。なぜなら実際に事件の場に居合わせた3人が自分の役を演じているからだ。サクラメントで過ごした彼らの幼少期の回想を始発とし、合間に2015年の事件の断片を挟みつつ物語は進行する。幼少期の3人は平たく言えばはみ出し者の問題児で学校に馴染めずにいる。スペンサーとアレックには集中力の欠如がみられるが戦争、軍隊といった話題には敏感に反応し、それが将来軍人を志す礎になる。そして3人は成長し、ヨーロッパ旅行の計画を立てた。

 ドイツを訪れたスペンサーとアンソニーは現地集合のアレックと合流する前に自転車で観光する。アドルフ・ヒトラーが自決を遂げた場所として総統地下壕を紹介するガイドに2人は間違いを指摘するが、ガイドはこう返す。「アメリカの歴史が全てというわけではない」。全編の中でも何気ないシーンと台詞かもしれないが、それでもこの一言にこの作品が持つ一面を見た気がした。


 「歴史はいつでも敗者に背を向けて、勝者を正しいとするものだということを忘れてはならない」


 戦争があれば勝者がイニシアチブを取り歴史を進め、敗者は辛酸を舐め従う。積み重なるのは勝利と成功で、敗北と失敗の堆積は滅亡を招く。歴史を1つの物語にまとめ上げるにあたり、その編集の邪魔とされ切り捨てられるのは圧倒的に敗者の歴史ではないだろうか。

 この作品だって『タリス銃乱射事件』をその場に居合わせ、乗客の命を救った3人の青年の目線から切り取ったものに過ぎない。3人に過去から脈々と続く物語があったように、犯人にも、列車内で撃たれた男、そしてその妻にも、人の数だけ物語は存在するが、それに踏み込むことはせず、かろうじてそれらを匂わせるのみにとどまる。この作品は他の物語を可能な限り排除し、事件を単一の視点から切り取ることに徹底しているが、それが終盤にかけて高みへと押し上げられていく3人と、その場にとどまり続ける観客の間に小さな亀裂を生み出す。

 物語が終わりに近づくにつれて、3人と3人を撮影するカメラ、そしてカメラを通して3人を見ていた観客との間の距離が広がっていく。序盤から観客はカメラを通して、自分をあたかも存在しない4人目の幼馴染だと錯覚してしまうほどに近い場所から彼らの成長を見つめるが、怒涛のテロシーンが終了するにつれてカメラは少しずつ3人から離れ始める。勲章授与の場面になるとそれが顕著になり、壇上に上がり勲章を拝する3人と観客の間にはまるでテレビ越しに彼らを見ているような距離がある。これは実際のニュース映像を使用しているのだろうか。距離は縮まらず、エンドロール、そしてその途中に挟まれた地元での凱旋パレードのシーンに移る。3人が乗るフロートに書かれた「サクラメントの英雄」という文字を見て、どこか同情してしまう。というのも、それは彼らが望んで手に入れたもののように思えず、民衆が求める英雄像を押し付けられているように見えてしまったからだ。

 観客と彼らの間に生まれた距離、自分と3人の乖離はそのまま事件前と事件後で分断された彼らではないか。これまで平凡で、善良で、どちらかというと蔑まれる側であった3人が人の願望や欲望、歴史に飲み込まれる瞬間を観客である私たちは元々彼らがいた場所から眺めるのかもしれない。